薄いログ

ブログの体をなさない多目的意識高い系サイトになります

よいこの現代芸術鑑賞

 大学の課題で、なにかしらの芸術作品を鑑賞して、ついでに批評しといてねー、というものがあった。丁度いろいろあって気が滅入っている頃で気晴らしに人の多いところに行きたかったし、大阪駅から近い中之島国立国際美術館に行くことに。なんにも下調べしていなかったけど、行ったらなんかライアン・ガンダーとかいう人の展覧会やってた。

 芸術のなんたるかを知っているわけではないし知ろうとも思わないし、何百回と美術館に通いつめているわけでもないから説得力はないけれど、ぼくは芸術を鑑賞する上でコンテクストというのはこの上なく邪魔な存在だと思う。というわけでライアン・ガンダーはそれなりに有名なコンセプチュアルアートの旗手らしいけれどそれは後で調べたことで、ぼくは精々国立国際美術館はどちらかと言えば現代芸術寄りの展示をしていることくらいしか知らなかった。まあポスターとか見ればなんとなくの雰囲気は伝わってくるけれど。

 そんなわけで以下の文章は芸術に関してシロウトである人間が書いた、ある意味でプリミティブ、悪く言えば無知無学な人間が受けたいっぱしの印象であり芸術論もどきである。ようするにこんなものに本気で怒ってはいけないよ、という予防線の段落だ。怒られるのは好きじゃないので。

 というわけで行ったわけですが、中に入ったらびっくりしてしまったぞ。なんせ、展示されてるものの意味がどれもこれも全くわからない。おれの家にあるトレス台を大きくして壁に懸けた、みたいにただ白く光り続ける板とか、ほんとうに意味がわからないのだ。あとちらほら天井に浮いてる風船があって、ぼくはてっきり子供が間違えて手放してしまったのかと思ってしまった。まあ冷静に考えたら美術館の中だしありえないけど。一番ビビったのは床に落ちてたクシャクシャの洋書の1頁。最初見た時嫌な予感がした。これ、「地球防衛家のヒトビト」に出てた、前衛芸術展で観覧者が落とした千円札を展示物の一つだと思い続けるやつと全く同じなのではないか、と。で、どうもその紙切れのある場所にパンフには丁寧に番号が振ってあって、きちんと作品解説がされていた。悪い予感は的中した。というかぼくにはただの紙切れであってほしかったのだが、どうも展示物らしい。

 これが最初の部屋での出来事で、あと2、3部屋あったけど正直もう帰りたくなってきた。でも500円も払ってしまったので何か役に立つものでも得て帰ったろう、という感じでムキになって二つ目の部屋にまでは行った。この展覧会、何が癪に障るかというとときどき印象的な写真とかまだ理解できそうな人形のモニュメントが配置されてて、「前衛が嫌い/わからない残念な人のためにわかりやすいのも用意してやりました」と言われているような気がしてもうつらい。それはとんだ被害妄想だ、作者も展覧会も何もそんなこと言ってないだろう、なんて言われてもダメだ。ぼくは作品からそういう印象しか受けることができなかった。

 ぼくもなにかしらの表現をする以上、作品の外側で「じつはこれにはこういう意味が込められてました…」なんてべらべら語るのは、実に卑怯な後出しじゃんけんだと思うし、鑑賞者に伝わらなかった意図は、たとえ製作時にほんとうに込められていようと存在しえないものだと思う。と同時に、製作者が最初からそれをわかってて作っていた可能性もちゃんと考慮しないといけない。実際のところは全く知らないから妄想だけれど、アンディ・ウォーホルは最初から自分の作品はテンポラリなものだというつもりで作っていたのではないか。というのも、これが真にせよ偽にせよ、たとえばマリリン・モンローのあの有名なシルクスクリーンを今見たときと、当時のアメリカ人が見たときでは受ける印象は全く違うと思われるからだ。最初のところで芸術鑑賞にコンテクストは邪魔だ、という私見を述べたけれど、ここに適用してみると、今の日本人はウォーホルのマリリンを見るにあたって、何の予備知識もなかったら精々昔有名だった女優、程度の認識しかできない。そういうわけで現在の日本においては、どうもマリリンの生涯、とくにその最期を頭に叩き込んでから鑑賞することで、何かしら「深い」と思おうとする。ところがよく考えたら、ウォーホルがこれを作り発表した時期の人は意図的にマリリンを意識しなくても「これはマリリン・モンローだ」と知覚することができる。ようするに、当時のアメリカ人にとってマリリン・モンローは娯楽活動で普通に目にする生活の一部であったし、もっといえばブリロもキャンベルスープも普段の生活で染み込んでいった自然な要素なのである。だから我々は当時の人間と同じ鑑賞をすることは、二度とかなわないのだ。なぜなら我々にはマリリンもブリロもキャンベルスープも馴染みがないのだから。

 ところが現代芸術は…と言いたいところだけど、主語が大きくなるとほかの現代芸術を勝手に批評してしまうことになるので、少なくともぼくが見てきたライアン・ガンダーの芸術展では、それが製作者の意思によるかはともかく、鑑賞者はどうも展示物の裏側にある制作意図を必死に探そうとしていた。注意したいのは、少なくとも(この言葉を使いすぎ)ぼくの目には、この制作意図は全く飛び込んでこなかったことだ。つまり鑑賞者は展示物の外側にある「コンテクスト」を探すことに夢中になる。というより、この展覧会にはとくに展示物ごとに解説があるわけではないので、より正しい表現をすれば展示物の外側に、鑑賞者自身が自分の納得の行くようにコンテクストを創作しているのである。やっかいなことにこのわけのわからない展覧会の展示物には、すべて、あの紙切れにも、だらだらとした名前がついている。展示物を直接示すような表題などほとんどなく、ぼくにとっては混乱の要因にしかならなかったけれど、コンテクストの創出に躍起になっている人にとってはよい材料だろう。コンテクストを作る労力は、作品と表題をつなげるだけで済む。

 ぼくの目には、この展覧会は思考ゲームにしか思えてならなかった。それも二重の思考ゲームである。つまり、鑑賞者の間で、いかに整合性の取れたコンテクストを作れるか、というのが第一のゲームで、その上に鑑賞者にコンテクストを作らせようとする、意味を見出させようとする、製作者と鑑賞者の間の第二のゲームが存在する。もちろん、鑑賞者に何かを思わせたら製作者の勝ちである。これは単に芸術的な欲求だけではなく、作品に意味があると思わせることは作品に価値がつくということであり、どうも入口で延々と流れていたNHKのプロフェッショナル的な番組で映されていたライアン・ガンダーとその取り巻きは、どちらかと言えばビジネスでアートをやっているように見えた。ムダな箱モノが多いと言われている大阪の、しかも美術館で、この展覧会はそれなりに人を集めていた。そういう点ではぼくが知らなかったこの人の芸術に対する姿勢は非常にスマートだ。

 ぼくはこういう現代芸術の双方向的なやりかたはあまりフェアでないとおもう。制作意図をきちんと表現していない、という責任を逃れているようにしか思えないからだ。もちろん、この考え方は非常に古典的だとおもうし、「お前は芸術の何もわかっていない」と言われても反論できない。わかろうとはしていないからだ。そもそも芸術をわかる、という言葉がかなり気味の悪い言葉だろう。鑑賞法というのは人によってさまざまであるべきだし、当然ぼくは現代芸術の鑑賞法をフェアではないと思っても弾圧することはできない。権力者になって弾圧してやろうとも思わないのだ。ようするにヴォルテールが言ったとかいう「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」だ。ぼくは自分の芸術についての考えに対して、これを書いてる今のうちは正しいと思っているのだ。とうぜんまだ若いからどんどん変わっていって、そのうちこれを見返して、ずいぶんばかなことを偉そうに言ってるな、ということもあり得る。……話がそれてしまったけれど、つまりはぼくの「なにもわからなかったし、向こうもわからせようという努力をしていない」という意見もひとつの鑑賞としてあるべきだと思う。同時に「なにもわからなかった」というのだけが現代芸術鑑賞の最適解だとも思っていない。それだけである。とても尊大な言い回しだが、ぼくの「わからない」は現代芸術鑑賞の巨匠たちの「わかる」と同じくらい尊重されるべきなのではないか。というより、自力でたどり着いたすべての人の芸術に対する意見は尊重されるべきである。古典主義の絵を見て古臭いと言うのも、印象派の絵を見てラフスケッチじゃないかと言うのも、芸術においては本来自由なはずだったのである。ところが今では古典主義の絵は写実的ですばらしい、印象派の絵は科学的で斬新、そして現代芸術は相互的で新境地だ、と一様に言わなければならないような状況にある。それを自力で思いついたのなら構わないし、じっさいにはそうやって自分の力でその意見を生み出した人達がマジョリティだからこそ、それらは評価されたのだろう。そしてぼくは現代芸術がわからないということに関して、それがマイノリティであることになんの誇りももっていないし、意見が尊重されるべきではあってもその意見を元に、たとえばまだ残して欲しいという人がたくさんいるのに国立国際美術館をなくすようなことはあってはならないと思う。まあぼくは多分、今のところ一生行かないけれど。ただ、そうしたマジョリティの評価を皆しなければいけないというのは随分ディストピアめいた様相であるし、鑑賞というのは礼賛ではない。ピカソの絵は子供みたい、とピカソを予備知識なく初めてみた人に対して、ピカソの若い頃の写実的なデッサンを見せながらその経歴についてだらだらと語り、だからこれは価値があるのだ、と権威主義的に語るのは無意味どころか、楽しむべき鑑賞の道のりを奪っていることにならないのではないか。