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薄いログ

ブログの体をなさない多目的意識高い系サイトになります

八つ裂き物語

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  ちょっと前まで3週間連続金曜ロードショージブリ映画が放映されていた。なんか最近は夏以外も隙あらばジブリやってるなーという感じで、でもちゃっかり俺は見ちゃったりするから意外と視聴率高いのかなーとか思ってたら肝心の視聴率、悪くはないがどんどん下がってる。ジブリは悪くない。テレビで連発しすぎて飽きられたのだ。宮﨑駿と高畑勲によって興行的にも芸術的にも成功を収めたジブリ、明日はどうなると言われがちだが正直宮﨑駿も高畑勲鈴木敏夫も年だ。自然消滅で全然かまわないと思う(権利関係は知ったこっちゃないのでこういう事を適当に言える人間なのです)。アリエッティとか作ってた米林宏昌が抜けた、ヤバイ、と言われてたけど実際宮﨑駿と高畑勲が今後いなくなって、どんな名作が生まれたところでジブリ名義で出す意味は薄れつつあるのだ。というか独立したのを喜ぶべきだと思う。近藤喜文が生きていればジブリが安泰だったなんていう人もいるけど、ともすれば彼も独立してたかもしれない。TVアニメ業界もどんどん枝分かれしていってるし、劇場アニメ側もどんどん別れて淘汰されていけばいいんじゃないかな(適当)。湯浅政明細田守もとっくにマッドハウス抜けてるしね。

九份はいい街ですよ

 それはともかく現在でもとりあえずは話題になるジブリ作品には何かと都市伝説がついて回る。「ドラえもん」とかにもありがちだけど、メジャー作品には「裏」があると信じてやまない人種というのが世の中結構いるらしい。よっぽど人間不信なのか、斜に構えているのが好きなんでしょう。とりわけ抽象・隠喩的な表現の多い千と千尋の神隠しは……まあヒドイ。作品がじゃなくて都市伝説が。

 1年前くらいまで延々と語り継がれていたが冒頭とかに出てくるあの珍妙な街は台湾の観光地・九份をモデルにしているのだ、という噂があった。そこそこ有名なウェブサイトやテレビで「この説はジブリ側が公式に否定している」というオチが紹介されたのでだいぶ落ち着いた気がする。九份側もロケ地(ということ)にされたのはメリットだったのか映画を模したほにゃららとかをしていたそうでテレビで散々笑われていた(ヒドイよね)。結局この噂がどこを出処としているのか、情弱の俺には全くわからない。九份自体は元々有名な観光地だし、適当に旅行者がイメージを重ねただけかもしれないし、もしかしたら偶然を観光協会側がステルス的に流したのかもしれない(トンだ陰謀論だな)。だいぶ広まってしまったことが示しているように、実際なんとなくの雰囲気は似ているのだ。もしかすれば噂の発信者にはなんの悪意もなかったのでは?「最初に出てくる街、九份に似てるね―」「千と千尋の街にそっくりな観光地が台湾に!」という会話に尾ひれがついていっただけかもしれないね。九份はいい街らしいのでいつか行きたい。

温泉街の攻防?

 千と千尋のロケ地問題でもう一つ気にかかったのは劇中で荻野千尋=千が働く湯屋「油屋」のモデルである。適当にネットサーフィンをしてたら、モデルの一つとして岡山は湯原温泉の「油屋」が出ていてびっくりした。というのも俺が岡山育ちで湯原にも何回か行ったことがあるからである。で、実際に見たこともあるしストリートビューとかを駆使して現在の姿を確認しても「…似てる…のか?」という具合で、どうもピンとこない。なんというか、「油屋」という名前だけでモデル扱いしていないか?という感じ。実際、当の油屋側もホームページに旅館の薀蓄コーナーみたいなのがあって逸話とかが色々書いてあったのであるが、千と千尋については一文も触れられていなかった。なのに別の宿屋には「千と千尋の湯」みたいなのがあって、なんかもう、錯綜している。呼ばれた側は何もやってないんだから周りが囃し立てることじゃないと思うのだけどね…?

 ちなみに湯原温泉と噂でもう一つアレなのが、全国的にも有名な露天風呂の「砂湯」である。なんか旅行ライターか誰かの個人的検証(とは言っても名の知れた人らしいので説得力はあるんだとか)によってこの砂湯は「露天風呂番付」の「西の横綱」になったわけである。これを名誉として湯原温泉街もしきりに使用しているわけであるが、よくよく考えると「西の横綱」なのはダムの真下で旭川沿いにダイナミックな露天風呂を楽しめる「砂湯」であり湯原温泉街ではない。いや泊まった俺が言うのだけど湯原温泉街は普通に有名だし何も胡散臭いところではないしそもそも温泉街側はあくまでも砂湯をプッシュするためにやってるだけなのかもしれないが、なんか旅行ガイドとかで「西の横綱と呼ばれる湯原温泉街!!」みたいな書き方をされると、「いや違うだろ…」と空気の読めないボヤキをしてしまうのである。

 結局こうしたロケ地問題は、後々ジブリ側がちょこちょこと証言していくことにより本来のロケ地の実像が形成されていくことになる。というかこうした「ネタバラシ」以前から、宮﨑駿は明確なロケ地が存在しない的な事を言っていた。裏を返せば色んな所からエッセンスを寄せ集めているのだ、というわけ。そういうキメラ的(もちろん調和は取れている)なデザインを見て、人々は「なんか昔行った所に似てるなあ」とかぼんやりと感じるわけですよね。そこまでだったらジブリ的にはイメージ戦略として成功だったんだろうですが、結局人々が受けた印象がどんどんエスカレートしていって、特定の場所をロケ地だと思うようになったんだろうなー。

テメエを八つ裂きにしてやろうか!

 ロケ地に関しては、まあ間違われた側は観光客が「聖地巡礼」的な感じでお金を落としてくれるし、どんどん作品のイメージが曲解されていくだけで(充分問題だけど)大きな問題にはならない。しかしそれがストーリーに踏み込むものになると、いよいよ曲解は悪化していくわけなのである。

 というわけで今年の放映でもアホみたいに囁かれたレジェンド級のホラ「千尋の髪留めが光るとハクが八つ裂きにされて死ぬ」と「劇場公開時は引越し先にハクの転生っぽい川が流れているというオチがあった」である。そもそも前者は論外と言われたら本当に論外で、そもそもハクは湯婆婆の脅し文句で八つ裂きにしてやろうかと言われただけだし髪留めは銭婆がカオナシや坊と作った糸で紡いだものでありハクは何も関係していない。後者についてもいろんな良心的サイトが徹底検証してくれていて(こうしたサイトを簡単に信じるというのもなんか皮肉ですけど…)まあないだろう、という話になっている。まあ後者は余韻をブチ壊さない噂だからまだ許せるかな。いや許せない人もいるだろうけど。まあ世の中宮﨑駿のあれこれをすごい知ってる人とかいますからね…。

 というか、ジブリの都市伝説ってなんでこう後ろ向きなヤツばっかりなんだろうな…と思わずため息をついてしまう。トトロで後半に影がついてないから死んでる、とか。いやまあこの意見には確実にバイアスがかかっていて、例えばラピュタの真EDについての噂は鬱でもホラーでもないがカン違いでしたねーと決着がついている。あと「噂」と「裏話・小ネタ」も金ローみたいな時間帯だと線引があいまいになっていき、「裏庭に通じる所に赤い飛行艇が停泊している→ポルコとジーナは結ばれた」とかは容易に想像出来る描写だし「聖司と雫は絶対別れると思う」は出演声優さんの意見でありあながちホラでもない(公式設定でもなんでもないけどね)。有名作品だとこういう尾ひれがどんどんついていき、例えばジブリの中でもどちらかといえば人を選びがちな高畑勲作品では都市伝説のたぐいは全然見ない。ドラえもんは植物状態ののび太が見た夢だとかサザエさん一家は飛行機墜落で磯に落ちて文字通りの生き物になるとかそういうのと同じだな。

描いてあり読み取れるものだけが作品の真実だ

 高畑勲作品「おもひでぽろぽろ」(お気に入りだ)のラストシーンだと、東京へ帰ろうとするタエ子が思い出の中の自分に勇気づけられて引き返しトシオの車で一緒に山形の親戚宅に戻っていく…という塩梅なのだが、案の定「後にタエ子とトシオは結ばれて農業をする」という具合に認識されている。高畑勲本人曰く「あと一日宿泊を延ばしてトシオと一緒に過ごしてみるため」という感じらしく、要するに結婚かどうかは全く関係がないのである。しかしまあ、前のシーンでばあちゃんが結婚話を持ちかけていたことやタエ子とトシオが並んで歩いてる時に思い出の中の子供たちが木で作った相合傘マークを掲げたりして、むしろ「結婚するようにしか見えない」という状況を作り出しちゃっている。つまり結婚すると考えちゃった人たちに「それはお前の理解力が足りていないからだ」と教養人ヅラをするのはお門違いであり、高畑勲監督が想定していた内容(というか意図)通り受容できないのは単純にそう思わせるための説得力に欠けているからなのである。っていうか監督も「最後は失敗だった」って言ってますしね。ここらへんは文春文庫のジブリの教科書で読めます。

 そうやって考えるとさっき書いた八つ裂き問題も、ちゃんと劇中の要素だけを拾っていけば絶対に八つ裂きにならない。ここらへん、おもひでぽろぽろとは逆だ。つまりおもひでぽろぽろのラストは描写不足で観客を誤解させることになったが、千と千尋では描写の不足がないのにいらぬ深読みなんざするから八つ裂きなどという妄言が生まれてしまう。結局、作品で描かれたこと、そしてそれが観客にスッと認識されたことこそが作品における真実であり、それ以外はどんなに説得力があっても「考察」というリッパな名前を持っただけの「妄想」にすぎない。

 まあ制作側が、不本意な受け取られ方に反論すべくあとあと自分の中での本来の設定や意図を語りだす時ってありますからね。これは森博嗣が「ミステリィ工房」の中で言ってましたが、あとがきみたいな存在は、例えばゴジラ映画の最後にきぐるみからスーツアクターが出てくるようなものである…と。まあそういう嫌さっていうのもあるんですが、一番苦しいのは「この作品は当時の作者の状況を踏まえると深みが出るんだよー」みたいに「作品以外の要素を前提としないと楽しめない」みたいな残念な土壌が生まれてしまいがちである、と。別にそういう楽しみ方はアレとか言うつもりはないんですが「ナウシカのアニメ版しか見てない人はにわか」とかそういうことをギスギスした感じで言っちゃ…ダメですよ?そういうのがあるのであんまり制作側もあとがきやら設定資料集やら番外編やらで「実はこういう話だったんだ…」って言ってほしくないんですが…まあクレームですねもう…すいません…。