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不良印刷書庫

よいこの現代芸術鑑賞

 大学の課題で、なにかしらの芸術作品を鑑賞して、ついでに批評しといてねー、というものがあった。丁度いろいろあって気が滅入っている頃で気晴らしに人の多いところに行きたかったし、大阪駅から近い中之島国立国際美術館に行くことに。なんにも下調べしていなかったけど、行ったらなんかライアン・ガンダーとかいう人の展覧会やってた。

 芸術のなんたるかを知っているわけではないし知ろうとも思わないし、何百回と美術館に通いつめているわけでもないから説得力はないけれど、ぼくは芸術を鑑賞する上でコンテクストというのはこの上なく邪魔な存在だと思う。というわけでライアン・ガンダーはそれなりに有名なコンセプチュアルアートの旗手らしいけれどそれは後で調べたことで、ぼくは精々国立国際美術館はどちらかと言えば現代芸術寄りの展示をしていることくらいしか知らなかった。まあポスターとか見ればなんとなくの雰囲気は伝わってくるけれど。

 そんなわけで以下の文章は芸術に関してシロウトである人間が書いた、ある意味でプリミティブ、悪く言えば無知無学な人間が受けたいっぱしの印象であり芸術論もどきである。ようするにこんなものに本気で怒ってはいけないよ、という予防線の段落だ。怒られるのは好きじゃないので。

 というわけで行ったわけですが、中に入ったらびっくりしてしまったぞ。なんせ、展示されてるものの意味がどれもこれも全くわからない。おれの家にあるトレス台を大きくして壁に懸けた、みたいにただ白く光り続ける板とか、ほんとうに意味がわからないのだ。あとちらほら天井に浮いてる風船があって、ぼくはてっきり子供が間違えて手放してしまったのかと思ってしまった。まあ冷静に考えたら美術館の中だしありえないけど。一番ビビったのは床に落ちてたクシャクシャの洋書の1頁。最初見た時嫌な予感がした。これ、「地球防衛家のヒトビト」に出てた、前衛芸術展で観覧者が落とした千円札を展示物の一つだと思い続けるやつと全く同じなのではないか、と。で、どうもその紙切れのある場所にパンフには丁寧に番号が振ってあって、きちんと作品解説がされていた。悪い予感は的中した。というかぼくにはただの紙切れであってほしかったのだが、どうも展示物らしい。

 これが最初の部屋での出来事で、あと2、3部屋あったけど正直もう帰りたくなってきた。でも500円も払ってしまったので何か役に立つものでも得て帰ったろう、という感じでムキになって二つ目の部屋にまでは行った。この展覧会、何が癪に障るかというとときどき印象的な写真とかまだ理解できそうな人形のモニュメントが配置されてて、「前衛が嫌い/わからない残念な人のためにわかりやすいのも用意してやりました」と言われているような気がしてもうつらい。それはとんだ被害妄想だ、作者も展覧会も何もそんなこと言ってないだろう、なんて言われてもダメだ。ぼくは作品からそういう印象しか受けることができなかった。

 ぼくもなにかしらの表現をする以上、作品の外側で「じつはこれにはこういう意味が込められてました…」なんてべらべら語るのは、実に卑怯な後出しじゃんけんだと思うし、鑑賞者に伝わらなかった意図は、たとえ製作時にほんとうに込められていようと存在しえないものだと思う。と同時に、製作者が最初からそれをわかってて作っていた可能性もちゃんと考慮しないといけない。実際のところは全く知らないから妄想だけれど、アンディ・ウォーホルは最初から自分の作品はテンポラリなものだというつもりで作っていたのではないか。というのも、これが真にせよ偽にせよ、たとえばマリリン・モンローのあの有名なシルクスクリーンを今見たときと、当時のアメリカ人が見たときでは受ける印象は全く違うと思われるからだ。最初のところで芸術鑑賞にコンテクストは邪魔だ、という私見を述べたけれど、ここに適用してみると、今の日本人はウォーホルのマリリンを見るにあたって、何の予備知識もなかったら精々昔有名だった女優、程度の認識しかできない。そういうわけで現在の日本においては、どうもマリリンの生涯、とくにその最期を頭に叩き込んでから鑑賞することで、何かしら「深い」と思おうとする。ところがよく考えたら、ウォーホルがこれを作り発表した時期の人は意図的にマリリンを意識しなくても「これはマリリン・モンローだ」と知覚することができる。ようするに、当時のアメリカ人にとってマリリン・モンローは娯楽活動で普通に目にする生活の一部であったし、もっといえばブリロもキャンベルスープも普段の生活で染み込んでいった自然な要素なのである。だから我々は当時の人間と同じ鑑賞をすることは、二度とかなわないのだ。なぜなら我々にはマリリンもブリロもキャンベルスープも馴染みがないのだから。

 ところが現代芸術は…と言いたいところだけど、主語が大きくなるとほかの現代芸術を勝手に批評してしまうことになるので、少なくともぼくが見てきたライアン・ガンダーの芸術展では、それが製作者の意思によるかはともかく、鑑賞者はどうも展示物の裏側にある制作意図を必死に探そうとしていた。注意したいのは、少なくとも(この言葉を使いすぎ)ぼくの目には、この制作意図は全く飛び込んでこなかったことだ。つまり鑑賞者は展示物の外側にある「コンテクスト」を探すことに夢中になる。というより、この展覧会にはとくに展示物ごとに解説があるわけではないので、より正しい表現をすれば展示物の外側に、鑑賞者自身が自分の納得の行くようにコンテクストを創作しているのである。やっかいなことにこのわけのわからない展覧会の展示物には、すべて、あの紙切れにも、だらだらとした名前がついている。展示物を直接示すような表題などほとんどなく、ぼくにとっては混乱の要因にしかならなかったけれど、コンテクストの創出に躍起になっている人にとってはよい材料だろう。コンテクストを作る労力は、作品と表題をつなげるだけで済む。

 ぼくの目には、この展覧会は思考ゲームにしか思えてならなかった。それも二重の思考ゲームである。つまり、鑑賞者の間で、いかに整合性の取れたコンテクストを作れるか、というのが第一のゲームで、その上に鑑賞者にコンテクストを作らせようとする、意味を見出させようとする、製作者と鑑賞者の間の第二のゲームが存在する。もちろん、鑑賞者に何かを思わせたら製作者の勝ちである。これは単に芸術的な欲求だけではなく、作品に意味があると思わせることは作品に価値がつくということであり、どうも入口で延々と流れていたNHKのプロフェッショナル的な番組で映されていたライアン・ガンダーとその取り巻きは、どちらかと言えばビジネスでアートをやっているように見えた。ムダな箱モノが多いと言われている大阪の、しかも美術館で、この展覧会はそれなりに人を集めていた。そういう点ではぼくが知らなかったこの人の芸術に対する姿勢は非常にスマートだ。

 ぼくはこういう現代芸術の双方向的なやりかたはあまりフェアでないとおもう。制作意図をきちんと表現していない、という責任を逃れているようにしか思えないからだ。もちろん、この考え方は非常に古典的だとおもうし、「お前は芸術の何もわかっていない」と言われても反論できない。わかろうとはしていないからだ。そもそも芸術をわかる、という言葉がかなり気味の悪い言葉だろう。鑑賞法というのは人によってさまざまであるべきだし、当然ぼくは現代芸術の鑑賞法をフェアではないと思っても弾圧することはできない。権力者になって弾圧してやろうとも思わないのだ。ようするにヴォルテールが言ったとかいう「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」だ。ぼくは自分の芸術についての考えに対して、これを書いてる今のうちは正しいと思っているのだ。とうぜんまだ若いからどんどん変わっていって、そのうちこれを見返して、ずいぶんばかなことを偉そうに言ってるな、ということもあり得る。……話がそれてしまったけれど、つまりはぼくの「なにもわからなかったし、向こうもわからせようという努力をしていない」という意見もひとつの鑑賞としてあるべきだと思う。同時に「なにもわからなかった」というのだけが現代芸術鑑賞の最適解だとも思っていない。それだけである。とても尊大な言い回しだが、ぼくの「わからない」は現代芸術鑑賞の巨匠たちの「わかる」と同じくらい尊重されるべきなのではないか。というより、自力でたどり着いたすべての人の芸術に対する意見は尊重されるべきである。古典主義の絵を見て古臭いと言うのも、印象派の絵を見てラフスケッチじゃないかと言うのも、芸術においては本来自由なはずだったのである。ところが今では古典主義の絵は写実的ですばらしい、印象派の絵は科学的で斬新、そして現代芸術は相互的で新境地だ、と一様に言わなければならないような状況にある。それを自力で思いついたのなら構わないし、じっさいにはそうやって自分の力でその意見を生み出した人達がマジョリティだからこそ、それらは評価されたのだろう。そしてぼくは現代芸術がわからないということに関して、それがマイノリティであることになんの誇りももっていないし、意見が尊重されるべきではあってもその意見を元に、たとえばまだ残して欲しいという人がたくさんいるのに国立国際美術館をなくすようなことはあってはならないと思う。まあぼくは多分、今のところ一生行かないけれど。ただ、そうしたマジョリティの評価を皆しなければいけないというのは随分ディストピアめいた様相であるし、鑑賞というのは礼賛ではない。ピカソの絵は子供みたい、とピカソを予備知識なく初めてみた人に対して、ピカソの若い頃の写実的なデッサンを見せながらその経歴についてだらだらと語り、だからこれは価値があるのだ、と権威主義的に語るのは無意味どころか、楽しむべき鑑賞の道のりを奪っていることにならないのではないか。

おもひでぽろぽろの原作を買おう

おもひでぽろぽろは名作である。

 

 …というのはともかく、実際の所おもひでぽろぽろという作品が活劇描写や王道展開に定評のあるジブリ作品、それも「もののけ」以前のなかではかなり異質な存在なのは否めない。その分、考察の量も少なく知名度もかなり低い。高畑勲だしね、しょうがないね。

 ちょっとジブリ齧った程度の人だと高畑勲は宮﨑駿の稼ぎを食いつぶす男というイメージで定着しているそうだ。実際そうだと思う。だがちょっとまってほしい。おもひでぽろぽろは大々的な宣伝のおかげもあって公開年の配給収入では邦画1位なのだ。まあ実際前後の魔女の宅急便紅の豚と比べるとはるかに低いけど。それでもその年の「ドラえもん」より見られた映画なのだ。まあかぐや姫だってそうだろうけど。ともかく、おもひでぽろぽろをリアルタイムで見ていた人というのはそれなりの数存在していたわけである。要するにおもひでぽろぽろとは押井守作品のような一種カルト的熱狂*1とは異なり、わりと観に行った人が多いのに語られていない存在になっている。 

タエ子、ビンタされる

 まあかぐや姫の公開にも合わせてここ3年くらいで2回も放送されてる記憶もあるし、なんだかんだでテレビで見た人も多いのではないか。たぶん6割位最初の30分で飽きてチャンネル変えると思うけど。それを耐えると問題のビンタシーンが登場する。

 こんな記事にたどり着いておいておもひでぽろぽろを視聴していないという人はまずいないだろうが思い出すためにあらすじを記すとこうである。

 あれこれほしいとねだるタエ子。次の標的は姉も持ってるエナメルバッグ。でも姉にそれをいびられたので反発してエナメルバッグなんていらない!と宣言しちゃったので父親からも諦めるよう言われて絶体絶命である。当時まだ特別行事だった外食の日になってもハンドバッグがないから行かないと言うのであるが、(見るからにイヤイヤそうな)姉から渡されてもやっぱり反発して行かないと。それで本当に出発しそうになるからタエ子は思わず裸足で玄関に飛び出しちゃうので父親がすかさずビンタ。おわり。

 ひっでえ子供だ。俺だってここまでひどくはなかった。まあ甘やかされてただけかもしれないけど。ただ父親のビンタがあまりにも強烈なのと映像描写が巧み過ぎる(場面のラスト、カメラが引くのではなく”画面”が引くのである!)こともあり随分印象的なシーンになった。それで、数少ないおもひで考察の大半は「なぜ父親はビンタしたか」に終始するわけである。

  「タエ子のわがままが過ぎたから」というのが一般的な見解で、実際あのシーンの駄々こねっぷりは凄まじかったのであるが、よくよく考えたら俺だってみなさんだってああいうワガママを発揮したことくらいあるはずである。ないのならさぞ育ちがいいんだと思います。よかったですね。というわけでワガママが引き金になってはいけないんです。第一父親が手を上げたのは後にも先にもこのときだけであり、ワガママ自体は全編を通して存在する。女優のシーンも父親に直訴してれば、上述の理論なら間違いなくビンタだっただろう。

原作買えばいいんじゃない?

 で、疑問に思ったんですけどなんでみんな原作コミック買わないんですか?買ってるよ勝手に決めつけんなゴミ!って人もいると思うんですけど原作読んでたらワガママが原因とかそういう結論には絶対ならないので、はい。大きめの書店で売ってました。俺は確か梅田の丸善で買いました。全編+オマケで402p1800円+税。お得です(?)まあ出版元の青林堂が今やジャパニズムとか刊行するようになっちゃって帯のところにも「日本人にとって豊かさとは何かを再び呼び覚ます…」とかあって若干香ばしいんですがそういう人は帯だけ取れば中身は漫画だけなんで大丈夫です。右翼出版社にお金なんか落としたくない!って人は適当に中古で買えばいいんじゃないんですか?ていうか初出が週刊明星で天下の集英社だったのになんでガロ時代の青林堂に版権が回っちゃったんだろう?一度集英社文庫からも出てるみたいなのに。こういう版権のカラクリは知ったこっちゃないですね。

 まあそんなわけで愛蔵版を手に入れれば当該項目を参照するだけです。読めばわかりますがいかに映画版のおもひでシーンが原作に忠実だったかわかると思います。あとキャラデザも忠実です。耳すまより忠実だよ!

 というか意外と映画で描かれなかった回があって面白いです。石ノ森章太郎の家に勝手に行ってサインねだるシーンとか。石ノ森先生がめっちゃ迷惑そうにしてるのが最高でした。

 そんなわけで1800円(+税)の価値はこれだけでも十分あるわけですが、問題のビンタ回を見ましょう。表題は「ワガママ」。そりゃこの回でタエ子がワガママ言わなきゃおかしいわな。途中は全部映画と同じです。で、問題のビンタ後。映画ではナオ子とトマト収穫しながらエピローグ的にタエ子本人が語っていますが、こっちではちゃんとおもひでシーン。でもモノローグがちゃんと書いてありました。以下「おもひでぽろぽろ 愛蔵版(青林堂)」より引用。

ひょっとして父は…

タエ子のワガママにいまさら腹を立てたのではなかったのかも知れない

はだしで飛び出すというそのみっともなさ あさましさに激怒したのではなかったろうか

ワガママでもいい

凛々(うつく)しく

育ってほしい…

それが父の美学だったのかも知れないーー

 あ、答えじゃん。

 以上、終わり。

 というのもぶっきらぼうでよくないので。

 見てきた考察の中には、「父親はワガママには甘いがしつけには厳しい」というようなものもありました。「ワガママ」が×ならこれは△ですね。でも原作のない状況で引用部分を完全に引き出せる人がいたらそれはエスパー。映画にはそこまで推理できる材料はなかったし。でもまあ、このモノローグをそのまま映画で言っても冗長だよな。

 ともかく父親には父親なりの価値観がある、という話でした。というのも、女優編と合わせて「この頃はまだ男尊女卑が云々…」というのがあって、まあ夫婦関係は完全にそうだけどビンタや女優でその断片を覗けるかと言われるとバイアスがかかってる気がして煮え切らない気分でしたので、父親の名誉回復(?)としてですね…。ビンタの夜、なんとも言えない表情で窓の外を眺める父親が印象的です。結局父親の意見が通っちゃうのが前時代的ですけどね。

 

追伸というかおまけ。

分数の割り算で母親に「フツーじゃない」とまで言われたタエ子ですが(1年後のテストは5点でした)、1年後の5年生ではちょっとだけ成長します。ていうかタエ子でも中学受験をするのです。そういう時代だったんですね。で、相変わらずタエ子は秀才のヤエ子にいびられながら算数に悪戦苦闘しているのですが、なんとタエ子は自力で通過算の理屈を理解してしまうのです。良かったですね。2ヶ月後にまた赤点取ってるらしいけど。そう考えると映画版のタエ子がバブル前なのに都会でOLしてるのもまあ納得できますね。めでたし。

*1:ごめんなさい。

森見作品になりたかった男

 これまで数多の有名人と問題児を輩出(排出)してきた国立大学法人京都大学京都大学といえば……と言われたらサジェストでもたくさん出てくるほどいろいろなレッテルが存在する。有名大学になるとよく外部からのイメージと実際に在籍しているもののイメージが大きく乖離することも不思議な事ではない。そういう事情もあってか、とくに都心部の有名大学については学生を出演させて実情をアピールさせる名目の番組も登場している*1京都大学は首都圏ではないが、国立大学法人では一般的に東大についで2番手、というイメージもありそこそこの頻度で学生特集が組まれている……気がする。それに最近ではネットの普及によって京都大学の風俗実態も電子の海に拡散されて様々な反響を呼んでいる*2

 注意されたいのは、実際のところは京大のイメージとしてすっかり定着してしまった「変」の要素は他大学でもそれなりの割合で存在しているということである。東京大学には時代錯誤社というよくわからないサークルがあるし、スーフリのせいですっかりウェイ扱いされがちな早稲田にもダミーじゃない正真正銘の謎サークルが多数ある。グローバルな視点で見れば所謂「折田先生像」のようなゲリラ的活動は世界的に有名なMITで「Hack」という名称で似たような*3ことが行われている。つまり実情としては全くのオリジナルでもオンリーワンでもない*4。そもそもネットで拡散されがちな要素はあくまでエッセンスに過ぎず、実際に構内を歩くとそれらを遥かに超える量の二番煎じとなり損ないが濫造された魔界であり、ネットユーザーはまず「ネタの海」から面白そうなのを選別する「発掘」をしなければならない。お疲れ様です。

京大の方向性を決定づけた小説たち

 京大からは作家も沢山誕生している。他の有名大学出身作家にも言えることだが、別に文学部じゃなくてもいいし文系じゃなくてもいい。京大の小説界で大きな勢力になっているのは新本格でお馴染みの推理研であり、綾辻行人をはじめ多数の推理小説作家が(どういう形であれ)ここを通過していく。

 まあ作家の裏事情とかに興味が無ければ京大の推理研が凄いとか知るよしもないわけで、多くの人々にとっては「京大」で「小説」と言われると大体二人に絞られる。要するに森見登美彦万城目学である。

もう現代の京都には、他に書くところがないんですよ。僕が2割、森見さんが8割やり尽くしたというか……森見先生が焼け野原にしてしまったんで、もうないんですよ(笑)。

――2013/10/30のエキサイトニュースのインタヴュー*5にて、万城目学氏曰く

 万城目学氏も森見登美彦氏も有名作家すぎてもはや説明する余地もないが、一応解説すると万城目学氏は「鴨川ホルモー」で、森見登美彦氏は「太陽の塔」をはじめ多数の著作で、それぞれ京大生を主要人物において小説を書いており、特に「ホルモー」と森見登美彦氏の「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」はかなり大きなヒットになった。そのムーヴメントは現在まで続いており、今年の春も「夜は短し」がアニメ映画化されるのである。

 比較的受容者が限られる推理小説に比べて、「ホルモー」も「四畳半」も「夜は短し」もエンタメ系と呼べる作品であり、また基本的に喜劇なためとっつきのよい名作であった。そういうこともあって老若男女に受け、老若男女ということで中高生にも広く読まれることになった。

 これらの作品はいずれも趣旨の異なる、つまり単なる焼き直しや二番煎じなどではないが、ある数点が共通していた。すなわち「登場人物に京大生の占める割合が多いこと」、「荒唐無稽であるが妙に現実味のある設定が多いこと」、そして「著者が京大生だったゆえ、学生生活の描写が精細なこと」である。こうした要素は中高生に京大への羨望を容易に掻き立てた。そして……俺もその一人だったのである。高校生時代、俺は学校で数少ない友人達に「四畳半神話大系」の文庫本を開いて、ここは有名な洋食屋*6で、ここはパフェの種類が多い喫茶店*7で、ここは…とネットで調べた「聖地トリビア」を披露していた。実際作品に描かれている生活に憧れ、志望する京都大学に入った暁には必ずや四畳半で暮らそうと決めたものだった*8。そして俺は晴れて京都大学に入学することを許され、嬉々とした気分で念願のあの大きな楠の影に入った……のだが。

「同じことをする」

 「四畳半」の主人公は理系3回生なので、高々在籍一年の文系の身で断言するのは甚だ烏滸がましい感も否めないが、要するにこの一年間の生活は名実共に「四畳半」ではなかった。ここでいう名とはつまり実際に居住していた部屋は7畳程であり四畳半暮らしでなかったというだけのことである。実生活で俺はかなり体力と精神力を擦り減らした。己の性格の面倒さ*9故に交友関係はほとんど構築できなかったし、なけなしの社会関係も面倒くさくて現在までに8割方処分した。同学部どころか同回生にも胸を張って俺が「友人です!」と言ったら向こうも「そうです!」と言ってくれる人がいる自信がない。いやこれはどうでもいい。特に努力も向上も維持もしなかった自己責任だからであるし――第一、「四畳半」の主人公も3回生時点で知人2,3人、友人1人*10という状況だったからである。

 行くべき所にも行ってみた。「円居」をはじめアニメ版における主人公の住居のロケ地と推定される京都大学吉田寮と銀月アパートメント、聖護院のからふね屋に鴨川挟んで向こうの出町ふたば安井金比羅宮下鴨神社、受験ジンクスでおなじみ吉田神社。極めつけは加茂大橋から眺めることの出来る通称「鴨川デルタ」。飛び石も何度往復したかわからない。入学して半年の間、こういうことばかりしていた。しかし俺は入学してすぐに電気電子工学科にいる妖怪みたいな人間と唯一の友人関係を結ぶこともなかったし、8回生の仙人のような変人を見つけることもなかった。もちろん、この春に入ってくる黒髪の後輩女学生と知り合うこともないだろう、とひっそり考える。

 そして半年を過ぎた頃、ついに寺社巡りも有名店巡りもやめた。あのカステラは一度も食べたことはない。進々堂には一度行った後で「夜は短し」に出てきたことを知ったが、もう「ふうん」としか思わなかった。薄々気付いていた思いはこの時点で確信に変わったのであった――「なぜ作品をなぞっているのだろう」?

「模倣」

 講義もまだ始まっていない大学生活の序盤も序盤のうちに、俺はあるブログを書いていた*11。駄文も駄文なので読まなくて全くかまわないしむしろ読まれると死にたい気分になるから要約すると、

 梶井基次郎は京都の丸善で本を乱雑に積み重ね、最期に檸檬を爆弾に見立て置きそれが爆発するさまを想像して胸部を圧迫していた「得体の知れない不吉な塊」が消えていくのを感じた。現在おなじように京都の地で苦悩している若者が梶井基次郎と同じやり方で解決を図ろうとしても、今の丸善京都店は寧ろ「檸檬」を宣伝材料とさえ認識しており檸檬を置いたところで一切困らない。すると梶井基次郎の模倣では悩める若者の「不吉な塊」が解消されるわけもなく、手段を失った若者は路頭に迷うのみである。

 ということが書いてある。

 若干論理構造が異なるが、「『檸檬』模倣問題」と俺の「『四畳半』模倣問題」は「模倣が全く意味をなさない」という点で共通している。さらにその原因もまとめると二つのポイントに集約される。

 ①作中における行動と結果は偶発であるが、模倣者は模倣による結果の必然を求める

 ②作中で描かれていた年代と模倣を行う年代は基本的に異なる

 ①は要するに「梶井基次郎みたいに俺も檸檬置いたら気分楽になれるかな」という目論見の甘さを指摘している。実際の所、俺が円居やからふね屋に行ったのは「四畳半」をたどるという目的が先行しており、「四畳半」で描かれていた「京大生がごく自然に店に通う様子」とは大きく乖離している。作中の主人公は俺と違って、円居に行っても「ここがあの円居かぁ~」とそわそわしないしする必然性もまったくない。結局「作中にある店に行けば自ずと理想の大学生活を送れるのではないか」という誤った価値観を半年の間だらだらと維持していたから、もともと結果を導く行為を行っていないにも関わらず「裏切られた」というような気分になる。

 ②は過去記事引用内容の一般化である。「檸檬」における丸善と同じで、「四畳半」で描かれていた各スポットも同じ地で営業しているとはいえ変質していても何ら不思議ではない。外部的な要因であるが、俺が入る数年前から既に京都大学には多数の森見ファン・万城目ファンが入学しており、俺みたいな歪んだ目的を持たずに純粋に”聖地巡礼”という形でスポットを巡ることが行われていたようである。作中で描かれる生活実態=森見氏や万城目氏が実際に京都大学に在籍していた頃に、当然著作の信奉者はいないから、多かれ少なかれ客層も「作中年代組」に並んで「聖地巡礼組」が勢力を増すのは当然のことだろう。「聖地巡礼組」が多くなってくると、「四畳半」で描かれた店に入っても、作中と同じ雰囲気を味わうことは実質的に不可能である*12

 ②より、そもそも俺が行っていた「模倣」とはそのもの以外の場所に目的を求めていた「聖地巡礼」だということが導かれ、①により俺が信奉していた理論は全くの虚言であったということがわかる。

作中生活を求めるという行為

 殆どの森見ファン・万城目ファンは、たとえ京大に入ったところで各々のライフスタイルを持っており、作品の「模倣」も遊興の一環であろうから、これまで書いてきたような「模倣」の危険性について読む必要は全くなかったわけである。寧ろ「模倣」本体を楽しめるほうが、よほど健全なのは言うまでもないだろう。ただ、もし現在森見登美彦作品や「ホルモー」に描かれるような生活に憧れる京大志望の中高生がいたら、それは運*13が悪ければ俺の二の舞になる危険があるので、京大に入るのはやめた方がいい……とまでは言わないけど、入学後半年間の俺みたいに結果の導出を求めて作品を模倣しないほうがいい、ということだけ伝えておきたい。あの半年間の後ろ半分とその直後四半期の併せて7月~12月の半年間、あまりにうまく行かなすぎて持っている角川文庫版「四畳半」とハードカバー2巻セットの「有頂天家族」をブックオフに売り払おうかと何度思ったかわからない*14が、こうして問題点を導出し、著者及び著作には何の落ち度もない、俺が悪かった*15ということがわかった1月以降は、それなりに身の丈に合った生活をして人生のリハビリに努めている(つもり)である。勿論「夜は短し」のアニメ映画も「有頂天家族」のアニメ2期も見るつもりである。そういうわけで、俺みたいな京大志望森見ファンがいたら、作品に歪んだ信頼を寄せずに健全な精神をもって純粋な「模倣」をしてほしい、「模倣」が何の結果も産まなかったところでそれは作品のせいではないと理解してほしい。それになにより、時代が進むと実際に学生が集う店も変遷していく――去年の10月に休業してすっかり静かになった「円居」の前の路地に立ちながら、俺はそういう風に思ったのであった。

*1:学生を出して信憑性を上げているだけの捏造も多い

*2:折田先生像とか。

*3:というかどう見ても上位互換。

*4:「変」を否定してるわけじゃないぞ。一応。

*5:http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20131030/E1383060222040.html

*6:「円居」。

*7:「からふね屋珈琲」。

*8:森見登美彦自身は四畳半を二部屋借りていたそうである

*9:斜に構える系。関わらなくてよし。

*10:結局知人が彼女になるがな!

*11:http://usuilog.hateblo.jp/entry/1055443917

*12:聖地巡礼組を否定してるわけじゃないぞ。第一それを決めるのは店側である

*13:あと性格。人に優しくなろう

*14:失敗が続くと人は盲目になります

*15:当たり前。

消え行くコンテンツに生きる奴らのそれとないブルース

  「年齢すぎるとオタクやってて虚しくなる」みたいな論調が最近場を席巻していて、まあ「電車男」とか「涼宮ハルヒ」の年代から10年たったと考えると年齢的にそういう風なセンチメンタリズムを考えちゃう人たちが現れても仕方ないよなーという感慨がある。幸い俺は身を滅ぼすほどコンテンツにのめり込むようなことをしていないので*1将来自分がどうなるんだろうという不安に関しては”アニメ・ゲーム文化享受する人間”という立場では感じていない。

 いやでもですね、「俺は年取ってもオタクするから(ドヤァ」と言うのはタダと言うか、まあ俺含めて勝手にやってればいいんじゃない?という感じなんですが、そうじゃない人のほうが圧倒的に多いわけで*2、そうじゃなくても人はコンテンツを移り渡るものであり、そうなると一度隆盛を極めたものであっても数十年経っちゃえば何があったのかもわからない跡地になってしまう。かなしい。

 

キャラクターとストーリーさえあれば…

 さて「オワコン」でなくてもコンテンツはいつか終わる*3。基本的にアニメ・マンガ・ゲームのコンテンツはキャラクターがいないと成り立たない世界なので、これらの持つ「世界観」とは要するに各キャラクターの相互関係を基礎としたものになる。で、これが世の中の多くの人々から忘れられた時、残った人が「それでもこの世界を楽しみたい…」となった時*4、こうした「キャラクターとそれが持つ関係とそれに関わるストーリー」があれば別に他に人がいなくても最低限世界観に浸れるわけである。つまるところ、たとえ自分の好きなコンテンツが終わろうが終わらなかろうが「キャラクター」がちゃんと独立していれば「人の記憶から消えること」は「世界ごと消えること*5」と何ら関係を持たないのである。

 というよりも、逆に「多くの人から人気が出ること」を嫌う人すらいる。こういう人たちの持つロジックはつまり「公式(それか自分の支持する)設定から逸れた世界観を展開してくれるな」ということに尽きる。例えばある異世界に一人かわいい女の子がいて、その子はストーリー的には最後に適当な塩梅である男と結ばれてそこで話が終了するのであるが*6、この作品が下手に人気が出るとこの女の子が別の男とくっついたり、別の女の子とレズ関係になっちゃったり、最悪読者を投影した異世界転生か何かの人物と結ばれちゃったりする*7。こういう展開は原作ストーリーを愛している人からすれば当然好ましいものではないので、それならいっそ人が少ないほうがこういう原作改変が起こりにくくて幸せだよねーという感じで*8

 

常に語られてきたキャラの消滅問題

 シナリオとキャラクターさえあればコンテンツが忘れられても残ったファンに問題ない、というのは、要するに他人の二次創作がなくてもシナリオを追憶することでファンはその世界を追体験することができる、というごくシンプルな構造なのである。さらに言えば、しっかりしたストーリーがあれば二次創作もその延長線上に置くことですんなり受け入れられるわけで、ストーリーの存在は作品(キャラクター)を愛した原作愛好家にとっては無くては困るレベルなのである*9。ストーリーの不足から来るキャラクターの消滅問題は基本的にRPGがノベルゲームのような「キャラクター性重視」のゲームジャンルでは起きにくいのであるが、逆に言えばストーリーが必要ないせいでシナリオに欠け、ファンの存在なしでの生存が不可能なキャラクターというのも現れるわけである*10

 つまり「キャラクターのための作品」ではない場合というわけなので…あるが。

 例えば地域振興のマスコットキャラだったり、製品のイメージとしてのイメージキャラクターである場合、具体的な設定を付与されずに生み出されてくる場合がとても多い。往々にしてそれらが有名になることだってあるのだ。初音ミクとか。こうしたキャラクターは製品を展開していく上でストーリーを足していくことは必需ではないので、「筋書き欠如」のままキャラクター人気も加熱していく。そこでキャラクターが好きなひとが現れても、キャラクターの追体験はストーリーが存在しないので出来ず、結果として公式以外の二次創作からそれっぽいのを追っていくしか無いわけである。この状態がズルズルと続いていき、最終的にコンテンツが終焉して、人々が去っていくと、残るのは設定のないキャラクターとファンだけである。かなしい。

一部には深刻、大部分はどうでもいい

 で、それの何が困るの?っていうことなんですが、たしかに設定のないキャラでもいくばくかのファンが残した二次創作作品があって、それを楽しめばいいじゃん、って感じですよね。でもそうじゃない人もいるんですよ~*11。最近は音ゲーが隆盛なんですが、音ゲーは俺が全然プレイしてないからわからないだけかもしれないんですが、傍から見てると音ゲーの世界観と音ゲーに収録されている曲の世界観は全く別物である場合があるらしく、そうなると(特に)曲側のキャラクターは曲しか設定の依存先がなくて大変だな―とか思っちゃうわけですよ!ポップンミュージックなんか、毎回キャラ出てきて詳細設定ついてないなんて、ビジュアルで一目惚れしたファンなんて大変だなぁ…とか感慨に浸っちゃうんですよね…*12。というわけでですね、こういう俺みたいな世の中に何人いるかわからないめんどくさい系の人もそういう心配をしなくて済むようにですね、キャラクターを作る時はこう、設定を作ってほしいというかですね、人から忘れられても俺が世界を追憶できるようにですね、……はい、クレームなんですが…過度な要求なんですが…はい…。

*1:イラストとかに打ち込めると消費するオタクとしての空虚さを拭えるという通説も流布してます

*2:体感だから突っ込まないで欲しい

*3:サザエさんとかクレヨンしんちゃんとか手塚治虫作品とかで反論するの、めんどくさいからやめてほしい

*4:執念。

*5:所詮は「自分の頭のなかで展開していた世界」にすぎないのであるが、存亡の機機にあるコンテンツを享受する人々にとっては大した問題ではない

*6:特定の作品を指しているわけではありません

*7:夢小説かよ。

*8:マルチエンディングのギャルゲーとかでも起こりやすい問題だと思う

*9:ストーリーがいいのが前提。

*10:キャラクターが消滅して困るのもファン。

*11:め、めんどくせー!!

*12:あとサン・ムーンに出てくる一部の女の子が途中からゲーム本編で一切出番がなくなるというのも悲しかったですね!

ザラザラ表紙に貼ってあるブックオフの値札は剥がす時に緊張する

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